東欧旅行記 5日目 (2016.5.23)
旧ソ連が崩壊しつつある1990年当時、モルドバの人口の4%ほどを占めるかつてオスマントルコの北限地にもかかわらずキリスト教徒だったガガウス人17万人ほどがガガウス・ソビエト社会主義共和国の独立を宣言して、モルダビア・ソビエト社会主義共和国からの分離を図ったが、ソ連が崩壊しモルドバ共和国として独立した後も分権活動は続いた。しかしモルドバのワイン産業ほどの資金力を持たなかったために分離運動は続かずに1995年ガガウス自治区として大幅な自治権を与えられることで解決した。
翌23日、そんなガガウス自治区の区都コムルトに立ち寄り、レーニン通りに建つレーニン像のある市庁舎や文化会館、パンテレモン大聖堂などを外から見学した。
翌23日、そんなガガウス自治区の区都コムルトに立ち寄り、レーニン通りに建つレーニン像のある市庁舎や文化会館、パンテレモン大聖堂などを外から見学した。
ところどころ牧草地帯も続く
その隣にある文化会館
十字架の下側に1本の斜め線が入るのが特徴
大聖堂の内部
正面の祭壇
大聖堂の表にあった花壇
次いでコムルトの郊外にある歴史民俗博物館を訪れ、古くからの民具や数10年前に撮られた結婚式のビデオなどを見た。さらにその隣に建つ聖ジョージア教会脇のレストランで昼食を摂った。
コムルトの街から出て歴史民俗博物館へ向かう
歴史民俗博物館の表札
昼食が終わりコムルトの街に戻り開いている両替を探して両替。この場合はモルドバの国の中にいるのだから余ったレイから次に行く国ルーマニアのレフに換金して貰うのだが、50レイ以上でないと換金不可能なのだとか。また米ドルからルーマニアレフへの換金も可能なのだが、ちょっと額が大きくなるとルーマニアレフの資金がなくなってしまうため、数人が数10ドル換金した時点で打ち止めとなってしまった。
キシニョフに着いた時からのガイドのバレリーさんは列車かタクシーを乗り継いでキシニョフん帰るということでコムルトの街でお別れ、ここからはルーマニアからの運転手ピュートルさんが一人で国境を越えてこの日の宿泊先のトゥルチャまで行くこととなった。
キシニョフに着いた時からのガイドのバレリーさんは列車かタクシーを乗り継いでキシニョフん帰るということでコムルトの街でお別れ、ここからはルーマニアからの運転手ピュートルさんが一人で国境を越えてこの日の宿泊先のトゥルチャまで行くこととなった。
農村地帯の鉄道を渡る
両替場所を探してコムルトの街の中で時間を使い過ぎたので、国境が近付きトイレを探してガソリンスタンドに停まったがスタンド内にコンビニのような売店はなく、脇にあったトイレに駆け込むがあまりの汚さに出るものも止まってしまった。共産圏のトイレ事情はどこもお粗末であると改めて感じた。
ガソリンスタンドでトイレ休憩しようと停止 WCと書いてあるが???
国境を通過するときにはモルドバの検察官がバスに乗り込んで来て、一人一人写真と確認してパスポートを持って行ってまとめて検印して添乗員に返して来た。バスを進めてルーマニア側には行った時にバスにやってきた検察官に添乗員がまとめてパスポートを渡そうとしたら、一旦各自に返して一人一人照合することになった。まあ国によって事情は違うのだから仕方ないか???
トータルで1時間くらい掛かったのだが、ルーマニア側の国境検察の隣にWCの文字があったのだから、立ち寄る時間くらいは取れたのではと添乗員の配慮のなさに???
トータルで1時間くらい掛かったのだが、ルーマニア側の国境検察の隣にWCの文字があったのだから、立ち寄る時間くらいは取れたのではと添乗員の配慮のなさに???
少し大きな街も通り過ぎた
ルーマニアに入りグラツという街を通り過ぎた後、ザクロブという所でドナウ川を渡るフェリーにバスごと乗り込んだ。大型のトラックやバス、乗用車の次々と船の上に誘導して行く。船に乗っていたのはせいぜい20分。
バスごとフェリーに乗り込む
大型トラックや乗用車を器用に甲板に誘導したら出港
大型トラックとバスの間に乗用車 車が止まっている間は間に出て記念撮影可
対岸のザクロブに到着
対岸に渡りさらに1時間。この日の宿泊先のデルタ4スターには20時半頃到着した。部屋には入らずにレストラン直行しビュッフェスタイルで夕食。この間に添乗員がチェックインして部屋割。バスから降ろしたスーツケースは夕食の間に部屋に運び込まれていた。
トゥルチャの街が近付く頃西日がバスに差し込んできた
20時半近く宿泊先にデルタ4スターに到着
添乗員がチェックインする間にレストラン直行
夕食はビュッフェスタイル
デザートもしっかりと摂って
食後は部屋に入りゆったりと。。。
=つづく=