イタリアの旅 7日目の2 (2014.7.24)
アルベロベッロからポンペイまでは約300kmの道のり。途中トイレ休憩を挟んで4時間弱。ポンペイ近くのレストランには14時ちょっと前に到着した。
ボンゴレと言っていたが、ムール貝と小さなアサリの入ったスパゲッティでの昼食となった。
ボンゴレと言っていたが、ムール貝と小さなアサリの入ったスパゲッティでの昼食となった。
食事後に現地ガイドさんと合流して、いよいよポンペイの遺跡へと入って行く。
西暦79年8月24日、一瞬の爆発によりそれまで富士山のような形をしていたヴェスヴィオ火山が二つに割れ、そこから噴き上げた墳石と火砕流そして溶岩流によって深く埋もれてしまった街。1748年に再発見されるまで完全に忘れ去られた存在であった。
現在では発掘調査により当時の街の規模や建築物の役割が再現されている。
西暦79年8月24日、一瞬の爆発によりそれまで富士山のような形をしていたヴェスヴィオ火山が二つに割れ、そこから噴き上げた墳石と火砕流そして溶岩流によって深く埋もれてしまった街。1748年に再発見されるまで完全に忘れ去られた存在であった。
現在では発掘調査により当時の街の規模や建築物の役割が再現されている。
最も栄えていた時の街の様子を示す地図
バーコードによる入場ゲートを通って遺跡の中へ
入口近くの遺構を見ると遺跡の上に降り積もった高さが判る
ここが元々のグランドレベル
柱や壁、階段などが掘り起こされ再現された
野外劇場の跡 中心に建つと小さな声でも、あらゆる方向に響いて伝わる
当時の通路 雨が降っても排水対策は出来ていた
レストランの厨房の跡
轍の跡が変形し残っている
パン屋の跡
人間が埋もれてできた空洞に石膏を流し込んで作った、当時の人の苦悶の表情
ここはサウナ 上げ床式になっていた
薬局か、売春宿か 当時の人の営みの絵が残っていて当時交易していた国々すら見えてくる
車止め ここから手前の官公庁のエリアには直接入れない
フォーロの跡 石柱が何本も残っている
出入口の枠には貝から削り出した大きなカメオがいくつも使われている
ヴィーナス神殿の跡
遺跡を見学した後は、この地方特有のカメオの工房を見学しショッピングタイム。
カメオ工房の待合室天井のフラスコ画
ポンペイからこの日の宿泊地であるローマまでは約250km。途中でトイレ休憩を兼ねて、元日本人添乗員が嫁いだ土産物店に寄ったが、それ以外の車中では翌日のローマ市内観光の参考にとオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」の日本語版DVDを見て過ごした。
ローマのメルキュールホテルに到着したのは21時ちょっと過ぎ、大きなホテルでレセプションで時間がかかったがとりあえず部屋に入り、夕食のためレストランに再集合した時は22時になっていた。
夕食後、今回の大型バスをミラノから(アマルフィを除き)運転してきたルシャーノさんとは、時間外超過の影響でこの日でお別れ。添乗員にとっても珍しいことだそうだが、ルシャーノさんがシャンパンを買い込んで持ち込みホテルの中庭でシャンパンパーティを行なうことになった。最後(他の宿泊客には迷惑なことだったろうが)に3-3-7拍子の三本締めまで行ない、24時ちょっと前に解散となった。
この日は結局部屋に入りシャワーを浴びて、facebookのアップもできないまま、ベッドに潜り込んだ時には0時半を過ぎていた。
ローマのメルキュールホテルに到着したのは21時ちょっと過ぎ、大きなホテルでレセプションで時間がかかったがとりあえず部屋に入り、夕食のためレストランに再集合した時は22時になっていた。
夕食後、今回の大型バスをミラノから(アマルフィを除き)運転してきたルシャーノさんとは、時間外超過の影響でこの日でお別れ。添乗員にとっても珍しいことだそうだが、ルシャーノさんがシャンパンを買い込んで持ち込みホテルの中庭でシャンパンパーティを行なうことになった。最後(他の宿泊客には迷惑なことだったろうが)に3-3-7拍子の三本締めまで行ない、24時ちょっと前に解散となった。
この日は結局部屋に入りシャワーを浴びて、facebookのアップもできないまま、ベッドに潜り込んだ時には0時半を過ぎていた。
ローマでの宿泊先メルキュールホテルに着いたのは21時を過ぎていた
先ずは部屋に荷物を置きに入った ダブルベッドの割と広めの部屋
夕食のメインはチキン料理だった
=つづく=