イタリア旅行の記憶-2

2回目のイタリアは1992年12月のことだった。
1989年4月から僕の勤めていた事業所は経営再建によってドイツ企業との合弁会社に変わり、静岡県掛川に新しい工場を建設し、それまで神奈川県鎌倉市大船にあった工場から91年に完成した新工場へと93年春にかけて順次製造設備の移設を行なった。工場の移転がほぼ終わりかけた92年10月に新組織が結成され、その時にドイツの親会社から赴任してきたイタリア人のマネージャーと僕の上司にあたる課長と3人で、ドイツとイタリアの工場の調査に出張したのであった。
日本を3人で出発したのだが、ドイツに到着後イタリア人マネージャーとは別行動で課長と僕はベルリン工場とアウクスブルク工場での調査を進めて行き、再び合流したのは日本を出て10日ほどしての、アウクスブルクからイタリアへの移動する朝のホテルのロビーであった。
まだ薄暗いうちにイタリア人の運転する車でアウクスブルクを出て1時間ほどでミュンヘンの街中を抜ける時に親会社のビルの脇を通過した。その後オートバーンでオーストリアインスブルックを通ってイタリアへと入っていったのだが、途中当時はまだ存在していた国境を2箇所抜けて行くのにトラックの長い行列の脇を抜けて行った。自家用車の場合は検問で車の窓からパスポートを提示しただけで一歩も外に出なくても良かったという記憶がある。
イタリアに入った所で1回くらいは休憩したのだろうが、国境を過ぎてからドロミティ山地の西側の高速道を「ロミオとジュリエット」の街ヴェローナまで時速150kmで駆け下りるのを、僕は助手席で両足を突っ張りながらビデオ撮影していた。ヴェローナからはこの日の目的地のヴェネチアの北1時間ほどの所にあるトレヴィゾに向かわず、高速道を西へとミラノに向かった。
ミラノには系列のイタリア本社があり、マネージャーが打ち合わせのために立ち寄ったのだが、13時頃到着しすぐに昼食をご馳走になって以降は18時頃まで課長と僕は応接室に閉じ込められてしまった。こんなことになるならミラノの街のどこかで車から降ろしてくれれば良かったのにと二人でぼやいていても、当人は打ち合わせに行ったきり帰ってこなかったのだからいかんともし難かった。
夕刻ミラノを出て再びヴェローナを通り過ぎトレヴィゾに到着したのは20時を回っていた。一般的にイタリア人の夕食の時間は遅いのだが、マネージャーの友人たちを招いてあったレストランに到着した時には、彼らの方も痺れを切らしていたようであった。


翌日はトレヴィゾの工場での調査を行なった、というよりもイタリア人マネージャーの元の職場への初凱旋における握手攻めに付き合わされたという感じであった。それでも要点は出張レポートにうまく纏めておいた。
夕刻からは車で1時間位のヴェネチアに出掛け、島への長い道を渡った後、駐車場の係員に「帰る時に出し易い所に停めて置いて」というつもりか高額のチップを握らせていた。当時イタリアリラは日本円に「0」を二つくらいつける位の感じだったので、札束を渡しているように見えていただけかもしれないのだが???
そこから水上バスに乗り運河を渡ってサン・マルコ広場まで行ったが、さすがに12月ともなれば異様に寒くて観光客もほとんどいなかった。サン・マルコ広場は潮が満ちてくると50cm以上も浸水するというので歩行者用の通路が設けられていたのだが、たまたま運が良かったのか引き潮の時間帯だったので濡れてはいたものの地面の上を歩いて観光できた。
最後にリアルト橋近くの高級レストランで夕食をご馳走になり、トレヴィゾのホテルへと戻っていった。

当時はデジタル技術がまだ未発達でデジカメもない時代。一眼レフでフィルムを大量に抱えて出張するよりはビデオカメラ(アナログのテープ)の方が後で報告が楽ということでそれを持って行った。ということで写真の方は???

= つづく =