バルカン半島の旅 2日目の2 (2014.4.8)

ユーゴスラビアには・・・5つの民族・4つの言葉・3つの宗教・・・と前に書いたが、それが最も極端に表れているのがコソヴォである。コソヴォセルビアから独立したのは2008年。しかしいまだにセルビアをはじめとしていくつかの国は独立を認めていない。
昔この地域に最初に住み始めたのはイリュリア人、紀元前の頃から住んでいたという。その後7世紀にはブルガリア帝国支配下になり、12世紀になるとセルビア人がこの地に入りセルビア王国となる。しかし13世紀の後半になるとオスマントルコとの激しい戦いが起こりオスマントルコの支配が500年も続く。この時にこの地にアルバニア人が強制的に連れて来られ定住するようになる。
その後19世紀後半にロシアとオスマントルコの間で露土戦争が起こると、ロシアの領土拡大に危機感を覚えたイギリスなどがベルリンで調停会議を開いた。その結果バルカンの地はドイツ・イギリス・イタリア・ロシア・オーストリアブルガリアの6カ国で分割統治されるようになった。しかしその分割の仕方が住んでいる民族分布を無視して大国の論理で線引きされたため火種が残ってしまった。
この地は交通の要所であり鉱物資源の宝庫であったため数々の紛争が起こって行くのだが、第1次世界大戦でユーゴスラビア王国が成立し、第2次世界大戦後はチトー大統領によりユーゴスラビア連邦民共和国としてまとまりを見せることになった。しかしチトーの死後、また民族対立などが起き分裂していくことになった。
そしてイリュリア人を祖先と考えるアルバニア人コソヴォ自治州のセルビアからの解放を求め始まると、ここに住むセルビア人との間に衝突が起こるようになった。そして対応セルビアからの空爆が始まると国連が介入しセルビアが撤退しNATO軍が駐留するようになった。そんな中2008年2月17日に独立宣言をし、翌日にアメリカが承認して以降世界の半数の国々がコソヴォを承認している。
現在のコソヴォアルバニア人セルビア人が中心で、オスマントルコの時代にイスラム教を信仰するようになった人とセルビア正教を信仰する人とが、お互いに自分たちの領域を守りながら共存していて、比較的落ち着いて生活している。しかし火種は無くなったわけではない。

プリシュティナとペーチで世界遺産の3つの修道院を見た後はコソヴォ南西部にあるプリズレンに移動し、今度はイスラム遺跡を観光した。プリズレンはオスマントルコの影響が残っていて、トルコのサフランボルに似た街であると添乗員は言っていた。ちなみに僕の行ったサフランボルの印象は、丘の上に要塞がありそこから街を見下ろすとイスラム教モスクとミナレット、さらに赤い屋根の間の細い路地である。

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ペーチからプリズレンに向かう車窓

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広い穀倉地帯に黄色の菜の花が広がっていた

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プレズレンに到着しバスを降り歩いて観光

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ミナレットの脇に白い半月が浮かんでいた

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路地の奥にジャミーア(モスク)とミナレットがある

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川の左側にスィナン・パシャ・ジャミーアがある

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スィナン・パシャ・ジャミーアのドームの壁面に描かれた絵

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広場にある水飲み場

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振り返ると丘の上に城壁がある

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プリズレンの中心部の石橋 奥の丘の上には要塞の城壁が延びている

プリズレンを出て高速道路にのると街の東側に雪を抱いた山が見えていた。次に向かうのは隣りの国マケドニアなので当然南に行くのかと思えば、西日を左に見て北上を始めた。どうも東側の高い山を避けて大きく迂回をするようである。車内が暗くなってきたら時差7時間の影響でひと眠りしていた。
目を覚まし国境近くのガソリンスタンドでトイレ休憩。20時半過ぎに国境に着き出国審査で係員がバスに乗り込んで来て、渡したパスポートと顔を見比べて確認し降りて行った。15分ほどでパスポートが戻って来て、バスは出発。コソヴォはこれでおしまい。

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プリズレンを出て高速にのると東側の雪を抱いた山に西日が当たっていた

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西日を左手に見て北上し始めたのでちょっとビックリ

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コソヴォでの旅程のまとめ


 == マケドニア == 

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今度はマケドニアへの入国である。コソヴォの検問所とマケドニアの検問所の距離は2分ほど。陸路で国境を渡るのは昨年9月のマレー半島縦断以来。久々に緊張する。ただ今回は入出国書類は一切いらない。ただパスポートチェックのみ。今度は添乗員が皆のパスポートをまとめて窓口まで行った。その間に係員がやって来て、運転手に床下のバッゲージルームを空けさせ荷物の確認をしていった。21時ちょっと過ぎ、約15分ほどでバスはマケドニアへと入ることが出来た。
マケドニアの国名はマケドニア共和国であるが、マケドニアそのものはギリシャからブルガリアにまで広がる地域であり、ギリシャは国名としてマケドニア共和国と呼ぶことを拒否している。このため日本政府も含め多くの国はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国(FYR of Macedonia)を使用している。マケドニアの国旗には「ヴェルギナの太陽」が描かれている。

21時半にバスはスコピエのホテルに到着し、直ちに夕食。その間にバッゲージが部屋に運ばれた。シャワーを浴び、この日撮った写真をPCに移し、facebookをアップして、眠りに着いたのは23時半になった。

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21時半 スコピエのコンチネンタルホテルに到着

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ホテルのレセプション

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真っ先に夕食 スープもパスタも薄味だったので食卓塩を掛けて食べた

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ツインルームがこの日の部屋

=つづく=