[その14] 日本橋~1:品川~2:川崎~3:神奈川~4:保土ヶ谷~5:戸塚 (2010.1.4,5)⑨

二日目(1月5日)朝食の後朝8時にホテルを出た。前日は下の田中本陣跡、中の惣兵衛本陣跡を通ったが、砂子通りで上の本陣・佐藤本陣跡を見つけることが出来なかった。この日の朝、気を付けて見てみると三菱UFJ銀行のガラス越しに案内板を見つけ写真に収めた。
その後砂子通りを西に向かい、小土呂橋交差点で川崎宿を後にし神奈川宿へと向かうことになる。

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「上の本陣」佐藤本陣跡(8:10)                 砂子通りの終端・小土呂橋交差点

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小土呂橋跡

小土呂橋から約1kmくらいで京浜急行八丁畷駅にぶつかる。その手前に松尾芭蕉の句碑があり、1694年5月に江戸を去るときにこの場所で門弟と別れを惜しんで「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と詠んだ。その年の10月に大阪で「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という辞世の句を詠んで没したと説明書きにあった。

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松尾芭蕉の句碑「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」

八丁畷駅京浜急行の踏切を渡ると、八丁畷の由来書きと江戸時代の疫病や震災で亡くなった人の骨がたくさん発掘されたという説明があり、その人たちの塚が建てられている。

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京浜急行八丁畷駅                          八丁畷駅脇のモザイク画

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八丁畷の由来と付近から発掘された人骨の説明板

八丁畷から200mほどで川崎市から横浜市に入る。さらに1kmほど進むと鶴見市場駅付近に市場村一里塚がある。日本橋から5里目の一里塚である。

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市場村一里塚

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一里塚にある祠

さらに500mほど行くと鶴見橋である。幕末期に生麦事件が起き、横浜開港に当たって外国人に対して危害を加えるのを防ぐために関所がいくつか作られた内の一つがこの鶴見橋付近にあったとの説明板があった。

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鶴見川に架かる鶴見橋を渡る

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鶴見橋の関門跡…幕末期、横浜開港の時に外国人に危害を加えるのを防ぐために設置されたとある

~つづく~