[その13] 51:石部~52:草津~53:大津~京・三条大橋 (2009.12.12,13)⑥
この日と翌日曜日の天気予報は共に「曇り時々晴れ」で降水確率は20~30%ということだったのだが、朝石部を出るときには小雨がしとしとと降り出し、昼草津に近付くに従い青空も広がった。一時は折り畳み傘を背中のバッグに仕舞ったのだが、草津宿を後にし野路の一里塚跡辺りからまたパラパラと落ちて来た。
玉川という昔宿駅があった辺りまで来ると、雨脚が強くなってきた。運の良いことに玉川の史跡には東屋があり、ここで20分ほど休憩を兼ねて雨宿りをすることができた。雨が降り出し一気に気温も下がり始めた。
玉川という昔宿駅があった辺りまで来ると、雨脚が強くなってきた。運の良いことに玉川の史跡には東屋があり、ここで20分ほど休憩を兼ねて雨宿りをすることができた。雨が降り出し一気に気温も下がり始めた。
野路地区の現代の道標 浄土宗教善寺
野路玉川の道標 野路萩の玉川案内板
野路玉川の東屋で20分間の雨宿り(14:40)
雨はいっこうに止む気配がなかったが、小降りになり空も明るくなり始めたのを機にまた歩き始めた。歩き始めるとすぐに大津市に入り、月の輪の一里塚を通り過ぎた。
さらに歩を進め、大江4丁目の交差点を通り過ぎ、大江3丁目の住宅地で一旦道を失いかけたのだが、少し道を戻ったりしながらも偶然「東海道」の道標に気付いて事無きを得る。
そうこうし何とか瀬田の唐橋の東詰めに到着。ここはその昔俵の藤太という武将が、橋の中央に横たわり通行を妨げていた大百足を退治したという伝説の舞台の橋である。京から東に向かう交通の要所にあり、「瀬田の唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほどの重要な橋であったという。
そうこうし何とか瀬田の唐橋の東詰めに到着。ここはその昔俵の藤太という武将が、橋の中央に横たわり通行を妨げていた大百足を退治したという伝説の舞台の橋である。京から東に向かう交通の要所にあり、「瀬田の唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほどの重要な橋であったという。