キプロス・マルタ2日目・ニコシア観光 (2017.1.20)

東地中海に浮かぶキプロス島は地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古く有史からエジプトやペルシャなどオリエント諸国の支配を受けた。その後ローマ帝国の属国となり、1191年の英国のリチャード王(獅子心王)の十字軍遠征によって制圧されてからはイギリス王の帰属となり、その後フランス人貴族に譲渡されて以降300年間はカトリック教徒の支配下となった。1489年にヴェネツィア共和国キプロスを手に入れてから、オスマンヴェネツィア戦争に巻き込まれ1571年にオスマン帝国ヴェネツィアからキプロスを奪いオスマン帝国支配下に置かれた。
第一次世界大戦後のベルリン会議でにイギリスがキプロスを併合し、それ以降イギリスの植民地となった。第二次世界大戦後には独立運動が高まり、1960年にイギリスから独立を果たしたが、1974年ギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が介入し北キプロスを占領してから、トルコ占有地域にトルコ系住民の大半が、それ以外にギリシャ系住民の大半が流れ住み南北に分断された状態が続いている。南北キプロスの問題は国連の仲介で何度も和平交渉が行われてきたがいまだに解決してはいない。
2004年にEU加盟を機に国民投票も行われたが、トルコ系住民の大半が統一に賛成はしているが、住民の過半数を制するギリシャ系住民の反対にあい統一するに至っていない。
もともと独立に当たっては、住民の過半数を占めるギリシャ系住民の意思決定が優先されることを嫌ってトルコ系住民が北部を占領したことで南北分断が起きて、北キプロスを世界で唯一支持するトルコ軍の思惑が最近は自身のEU加盟問題からキプロス問題で強硬姿勢を貫けなくなっているため、問題は長期化している。最近は南北の行き来についてはかなり緩和されてきているというが、日韓の関係にもみられるように、隣人間で一度こじれた関係の修復は難しい。今回のガイドの説明の中でもたびたび「オキュパイドトルコ(占領下のトルコ)」という言葉が聞かれた。

イメージ 1
キプロス島には島を南北に分断するグリーンラインが存在する

ラルナカ国際空港で現地旅行会社のバスに乗り込んで一番最初に首都ニコシアへと向かった。一番最初に降り立ったのは16世紀のヴェネツィア時代に築かれた旧市街の囲む城壁の出入り口の一つファマグスタ門である。ここから歩いて18世紀に描かれたイコンが多く残る聖ヨハネ教会へと向かった。

イメージ 2
ファマグスタ門

イメージ 3
路地を奥に進むとイスラム教モスクの尖塔らしきものが見えていた

イメージ 4
民族博物館

イメージ 5
ヨハネ教会(教会内部は撮影禁止)教会の前にはギリシャ国旗が掲げられている

イメージ 6
ヨハネ教会横の大主教の館前に建つ大主教像と聖ヨハネ教会

イメージ 7
教会の中庭には子供を抱きかかえる婦人の像があった

イメージ 8
ヨハネ教会に翻っていたギリシャ国旗

イメージ 9
ヨハネ教会の裏手にあるビザンティン美術館

イメージ 10
美術館内のイコンは撮影禁止だが、入り口から見えるところらイエスのイコンが掲げられていた

イメージ 11
ヨハネ教会隣の大主教の館

イメージ 12
大主教の館前にあった郵便ポストは黄色であった

ヨハネ教会からバスに戻ると降りた場所から少しずれた自由の記念像の近くに停まっていて、そこにはヴェネツィアン時代の水道橋の跡があった。

イメージ 13
ヴェネツィアン時代の水道橋の跡

イメージ 14
撮る角度を変えて

イメージ 15
バスは自由の記念像の近くに停まっていた ここにはキプロスの国旗が掲げられていた

再びバスに乗り少し移動して城壁を少し移動したところでバスを降り、市内随一の繁華街であるリドラ通りを南北を隔てるグリーンラインのクロスポイントのところにあるレストラン”KATHEDON”で昼食となった。

イメージ 16
城壁でバスを降りて昼食レストランへ向かう、かつて城壁の周りは堀に囲まれていたらしいが今は駐車場となり堀の面影はない

イメージ 17
旧市街随一の繁華街リドラ通り

イメージ 18
グリーンラインのクロスポイント近くのレストラン”KATHEDON”で昼食 店内には多くの猫がいた

イメージ 19
この日の昼食は串焼肉シシケバブ

イメージ 20
グリーンラインのクロスポイント ここから奥はトルコ人の居住区、パスポートを提示して入国する

イメージ 21
再びリドラ通りを通ってバスに戻る

再び城壁近くに止めてあったバスに戻りキプロス考古学博物館へ行った。キプロスは英語ではCYPLUSと表記されサイプラスと発言される。日本人はキプロスと現地の人のように発音してくれるのがうれしいとガイドのアンジェラさんは言っていた。日本だってニホンやニッポンと言ってくれる隣人がいればうれしいのだが、長い年月の間に韓国では日本と記載していてもイルボン、中国ではリーベンと呼ばれ、やがてマルコポーロの時代にジパングと西国へ伝わり、いつのまにかJAPANと英語では表記され、ジャパンやジャポン、ハポン、ヤーパンなどと呼ばれるようになっても誰も何とも思わなくなっていることからすれば、オリンピックでのスポーツウェアに書かれているNIPPONやNIHONと正しく発言されれば嬉しいに違いない。
数年前にソビエト連邦時代にロシア風の呼び名のグルジアではなく現地語に近い(?)ジョージアと呼んでほしいと提起し、日本の法律でもジョージアと改めたように、日本国はいつまでJAPANを正式国名として認め続けていくのだろうかという疑問を僕個人としては持ち続けている。

イメージ 22
昼食後再びバスで移動

イメージ 23
キプロス考古学博物館

イメージ 24
キプロス島内で発掘された紀元前5000年前の土器

イメージ 25
人の形をした置物

イメージ 26
人の形をした酒器?

イメージ 27
ペルシャの時代の影響を受けた土器

夕刻再びバスに乗り、ニコシアから郊外に出てレフカラ村へと行った。ここの村は昔から刺繍などの手芸製品が作られており、ルネッサンスの時代にはかのレオナルドダビンチが訪れたこともあり、その時に買い求めて帰った刺繍のテーブルクロスが、ミラノ大聖堂の有名な「最後の晩餐」のテーブルに描かれているのだということである。

イメージ 28
夕暮れ時に島中央部のレフカラ村へと向かった

イメージ 29
ルネッサンスの時代にレオナルドダビンチが訪れたという刺繍工房を訪れた

イメージ 30
最後の晩餐に描かれているのと同じデザインの刺繍だそうである

イメージ 31
大きなものは高くて買えないが、小物ならばちょっとした土産になりそう

イメージ 32
何百年もこのスタイルで刺繍工芸品が作り続けられているという

イメージ 33
夕暮れ時のレフカラ村

イメージ 34
夕暮れ時の刺繍工房の店先

イメージ 35
隣のウィンドウには高価な装飾品も

小雨降る中レフカラ村をあとにしてキプロス島南岸のリゾート地リマソールにあるポセイドンというリゾートホテルへと向かい、長かったこの日の工程を終えた。

イメージ 36
18時半この日の宿泊先ポセイドン・リゾート・ホテルに到着

イメージ 37
添乗員がレセプションでチェックインの間ウェルカムドリンクが配られた

イメージ 38
この日から3日間はダブルの部屋に泊まりました

イメージ 39
夜はホテルのレストランでビュッフェスタイルの夕食

=つづく=