インド洋の旅 8日目の2 (2016.9.5)
昼食後はモーリシャスの首都ポート・ルイスの市内観光。
最初に訪れたのは自然歴史博物館。ヨーロッパの文明がそれまで陸路で伝えられていたインドやインドシナの香辛料を求めて海路で喜望峰を超えてインド洋に入った時、モーリシャス島には外敵がいなかったので退化して空を飛べなくなっていたドードーと言う鳥は簡単に捕らえることができた。世にも珍しいこの鳥はヨーロッパに連れ帰られただけではなく、例えば珍しい贈り物として色々な所に運ばれた。日本の長崎の出島にもやってきた記録が残っているほどである。
簡単に食料として捕獲できるこの鳥は、人間の目に触れるようになってからわずか一世紀で地球上から絶滅してしまったのである。そんな鳥が存在していたことを示す、完全な骨格標本すら今では世界中探してもモーリシャスのこの博物館にあるだけで、大英国博物館にすら完全なものは存在しないのである。
そんなドードーの骨格標本を自然博物館に見に行った。この博物館前の道は狭く、マイクロバスのドライバーが駐車禁止で摘発されないよう注意を払って素早く乗り降りした。国立自然歴史博物館ならば駐車場くらい完備して置けば良いのにな~。
最初に訪れたのは自然歴史博物館。ヨーロッパの文明がそれまで陸路で伝えられていたインドやインドシナの香辛料を求めて海路で喜望峰を超えてインド洋に入った時、モーリシャス島には外敵がいなかったので退化して空を飛べなくなっていたドードーと言う鳥は簡単に捕らえることができた。世にも珍しいこの鳥はヨーロッパに連れ帰られただけではなく、例えば珍しい贈り物として色々な所に運ばれた。日本の長崎の出島にもやってきた記録が残っているほどである。
簡単に食料として捕獲できるこの鳥は、人間の目に触れるようになってからわずか一世紀で地球上から絶滅してしまったのである。そんな鳥が存在していたことを示す、完全な骨格標本すら今では世界中探してもモーリシャスのこの博物館にあるだけで、大英国博物館にすら完全なものは存在しないのである。
そんなドードーの骨格標本を自然博物館に見に行った。この博物館前の道は狭く、マイクロバスのドライバーが駐車禁止で摘発されないよう注意を払って素早く乗り降りした。国立自然歴史博物館ならば駐車場くらい完備して置けば良いのにな~。
ポート・ルイスの地図 某・地球の迷い方(?)から抜粋
国立自然博物館前で急いでマイクロバスを降りる
こちらは残されていた絵図から作り上げた剥製もどき
自然博物館なのでインドマグロの剥製なども展示されている いずれ絶滅するのかな?
博物館の出口でマイクロバスが戻ってくるのを待ち、次に向かったのはアデレード砦。ここはもともとフランスの植民地であった頃にイギリスが攻めてくるというので見張り台として作られた所。しかし砦の完成前にイギリスが勝ったため、イギリスの砦として完成し使われた。
この高台に上ってみるとポート・ルイスの街が一望できる。さらにアデレード砦の直下にはシャン・ド・マルド競馬場があり、その背後には特徴あるル・プス山がそびえている。
この高台に上ってみるとポート・ルイスの街が一望できる。さらにアデレード砦の直下にはシャン・ド・マルド競馬場があり、その背後には特徴あるル・プス山がそびえている。
砦の眼下には競馬場が見えている
砦の内部へと入っていく
砦の下にはポート・ルイスの街
さらにその先にはインド洋が広がる
砦の内庭には大砲が何門か展示されていて、東にはル・プス山やそれに連なる山が見えている
砦から降りてポート・ルイスの街中を抜けて海辺まで出ると、インドからの移民が1834年にモーリシャス島に初めて上陸した地点として2006年に世界遺産に登録されたアプラヴァシ・ガートがある。
それまでアフリカ大陸から強制的に連れてこられた奴隷に代わって、労働契約社員という新たな形でインド系の人々が初上陸してから90年の間に50万人がサトウキビ畑などでの労働に従事したとされ、それから現在に至るまでにモーリシャスの人口130万人の半数以上がの人々がインド系の住民となっている。初上陸した頃には検疫のため船から降りてこの検疫のための収容所に何か月も留められたという。
この世界遺産のアプラヴァシ・ガートを僕たちが訪れたのは15時過ぎで、最後の展示場所の強制収容所跡の見学をしていたのは16時閉館のまだ20分も前だったにもかかわらず、僕たちを追い立てるように次々と部屋の扉を閉めていった。
モーリシャス在住のガイドみどりさんに言わせると、16時の勤務時間が終わったら1秒たりとも職場に残っていたくないのが当たり前で、我先にとタクシー争奪戦に駆け出すのだそうである。アプラヴァシ・ガートを出て市内を歩いて観光している時にそんな乗り合いタクシーを争奪する光景を見せつけられた。
それまでアフリカ大陸から強制的に連れてこられた奴隷に代わって、労働契約社員という新たな形でインド系の人々が初上陸してから90年の間に50万人がサトウキビ畑などでの労働に従事したとされ、それから現在に至るまでにモーリシャスの人口130万人の半数以上がの人々がインド系の住民となっている。初上陸した頃には検疫のため船から降りてこの検疫のための収容所に何か月も留められたという。
この世界遺産のアプラヴァシ・ガートを僕たちが訪れたのは15時過ぎで、最後の展示場所の強制収容所跡の見学をしていたのは16時閉館のまだ20分も前だったにもかかわらず、僕たちを追い立てるように次々と部屋の扉を閉めていった。
モーリシャス在住のガイドみどりさんに言わせると、16時の勤務時間が終わったら1秒たりとも職場に残っていたくないのが当たり前で、我先にとタクシー争奪戦に駆け出すのだそうである。アプラヴァシ・ガートを出て市内を歩いて観光している時にそんな乗り合いタクシーを争奪する光景を見せつけられた。
ここからは全くの私論になるのだが、レユニオンやタヒチ、ニューカレドニアのように世界有数の観光地をいまだに植民地として据え置いているフランスと、モーリシャスやフィジーなどのようにインド系民族に独立を与え連邦構成国家と認めているイギリスのやり方とどちらが正しいあり方なのであろうかと考えさせられた。
通勤ラッシュ前にもかかわらず交通渋滞となっているポート・ルイスの繁華街
一歩裏道に入ると空いている道もあるのだが。。。
メイン通りは人も車も入り乱れて。。。
15時20分、アプラヴァシ・ガートの入り口に到着
年季契約移民入管上陸の地というプレートがある この足跡はその時のものなの???
インド系契約移民の流れ
アプラヴァシ・ガートの模型
説明板には入管職員のキッチンとある
15時40分、アプラヴァシ・ガートの展示場を追い立てられるように出された
道路際には乗り合いタクシーや(白?)タクシーを止めようと待つ人々があふれていた
黄ナンバーの乗り合いタクシーを止め急いで乗り込む人々
アプラヴァシ・ガートを出てからは歩いて中央郵便局前から地下道をくぐり中央マーケットへと入って行った。モーリシャスで口蹄疫や鳥インフルエンザが流行しているのか周辺国で流行しているのかは不明だったが、食肉売り場方面は立ち入り禁止であった。
野菜売り場では色んな野菜が山のように積み上げられていて、一つ取ったら崩れてしまいそうなくらいだった。そんなマーケットの雰囲気が200モーリシャス・ルピー紙幣のデザインにあらわされている。
野菜売り場では色んな野菜が山のように積み上げられていて、一つ取ったら崩れてしまいそうなくらいだった。そんなマーケットの雰囲気が200モーリシャス・ルピー紙幣のデザインにあらわされている。
中央郵便局の前
郵便局前には赤いポストがたっていた
地下道を渡り中央マーケットへ
トマトがきれいに積み上げられていた
果物なども山のように積み上げられ そんな様子が200ルピー紙幣にも描かれている
1階が青果市場、2階が衣料品や日用品、土産物売り場だった
2階の日用品売り場のコーナー
マーケットを出てからはウォーターフロントのショッピングセンターやカフェなどを散策して過ごした。
港にはキャノン砲が向けられている
子供を肩車して歩くお父さん
カジノ入り口のオブジェ
カフェでコーヒーを飲んだりWiFiでインターネットアクセス
ウォーターコンプレックス内のメイン通り
=つづく=