コーカサス3カ国ツアー 5日目の2 (2015.5.19)
アルメニアの日本語ガイドのルシーネさんはどこで日本語を勉強したのかわからないがとにかく綺麗な日本語を話す。何でもソ連時代に日本語弁論大会で優秀な成績を収めたことがあるそうで、その時にアルメニアの首都エレバンからバスでこの日僕たちが通ってきた国境を通ってウクライナ辺りまで行ったことが有って、その時に今通っている急な坂道がとても怖かったという思い出話をしていた。
また我々が2号車に乗り込むとアルメニア語と日本語の対比表を配り、翌日の朝までにバリ・ルイス(やさしい光=おはようございます)とメルシ(ありがとう)、アヨ(はい)、ヴォチ(いいえ)くらいは覚えて来てねということになった。
日本の技術援助やJICAなどの話題も豊富で、アラヴェルデ(神様が与えてくれたものという意味)という街の銅山はソビエト時代に公害がひどかったのだが、ソ連からの独立後に日本の技術支援で公害対策をやってもらったとか、ヴァナゾルという山間地の街を通った時には1988年の大地震で学校が押しつぶされて20000人もの子供たちが犠牲になったことがあったのだけれど、これも日本からの支援で鉄筋コンクリート造りの校舎に生まれ変わったとかいう話をしてくれた。
今、日本では防衛関連の法整備の話がかなり強引な形で進んでいるが、そんなことをしなくても今までの技術支援策やJICAのような活動を理解し感謝している人々が多く居ることを、もっともっと国民に伝えてくれたら良いと思うのだが。。。
また我々が2号車に乗り込むとアルメニア語と日本語の対比表を配り、翌日の朝までにバリ・ルイス(やさしい光=おはようございます)とメルシ(ありがとう)、アヨ(はい)、ヴォチ(いいえ)くらいは覚えて来てねということになった。
日本の技術援助やJICAなどの話題も豊富で、アラヴェルデ(神様が与えてくれたものという意味)という街の銅山はソビエト時代に公害がひどかったのだが、ソ連からの独立後に日本の技術支援で公害対策をやってもらったとか、ヴァナゾルという山間地の街を通った時には1988年の大地震で学校が押しつぶされて20000人もの子供たちが犠牲になったことがあったのだけれど、これも日本からの支援で鉄筋コンクリート造りの校舎に生まれ変わったとかいう話をしてくれた。
今、日本では防衛関連の法整備の話がかなり強引な形で進んでいるが、そんなことをしなくても今までの技術支援策やJICAのような活動を理解し感謝している人々が多く居ることを、もっともっと国民に伝えてくれたら良いと思うのだが。。。
牛や羊がバス道路のすぐ脇までやって来る
これから標高1900mmのセバン湖まで山の中を走って行く
峠のトンネルまであと7曲がり、トイレ休憩に立ち寄った
日本のコンビニにあたる清涼飲料水の冷蔵庫 日本との違いは緑茶がなくミネラルウォータ
峠の2kmのトンネルを抜けてセバン湖のほとりに出た
セバン湖はソ連時代に流入する川に発電用のダムを作ったりして水位が25m以上も下がったのだが、今は若干戻して19mほどになっていてこれ以上は水位が下がった以降に作られた道路が使えなくなってしまうので改良をしないことになっているそうである。
またセバン湖の水位が下がったことでこれから訪れるセバン修道院は陸続きの半島になってしまったそうである。
またセバン湖の水位が下がったことでこれから訪れるセバン修道院は陸続きの半島になってしまったそうである。
18時過ぎにセバン湖を離れ首都エレバンへと向かう。道々バスの前方からアララト山が見えているというアナウンスがあったがあまり良く見えない。日本でも冬場は富士山が良く見えるがそれ以外の時は霞んでもえないことが多いのと同じことかも。
途中黒曜石や玄武岩の採掘場所を通ったが、この後行くエレバンは玄武岩のピンク色の石造りの街なのだそうである。
19時半に市内のレストランに立ち寄り、ホテルに到着したのは22時ちょっと前になっていた。
途中黒曜石や玄武岩の採掘場所を通ったが、この後行くエレバンは玄武岩のピンク色の石造りの街なのだそうである。
19時半に市内のレストランに立ち寄り、ホテルに到着したのは22時ちょっと前になっていた。
19時半に市内のレストランに到着
先ずは最初に出ていた野菜などの前菜をつまむ
この日のメインは中段にあるパイ包みでボリューム大
夕食を終えてレストランを出たのは21時半
ホテルのレセプションでチェックインを待つ
今回はどういう訳か最上階のスイートルーム、でも質素な造りだった
=つづく=