南アフリカの旅 4日目の1 (2014.10.14)
この日は朝6時半にモーニングコールで、そのまま朝食へ。バスの出発は8時でケープタウンを出て南に向かい喜望峰の先端まで行くコース。
夜中に風が吹くこともなく朝から青空が広がっている。この分ならばテーブルマウンテンに登ることも可能なのでは。ただし喜望峰の先端まで行って岬を回って戻ってくるまで、天気が安定していればという条件付きではあるが。情報によれば同じ日に日本から来た8日間ツアーの団体は、テーブルマウンテンに登れないまま、この日の朝ケープタウンを離れたとのこと。ここは10日間ツアーでケープタウン3泊の強みが出たということか。いやいやここは油断めさるな、夕方までにテーブルマウンテンに登れて絶景を目にしてからのこと。
夜中に風が吹くこともなく朝から青空が広がっている。この分ならばテーブルマウンテンに登ることも可能なのでは。ただし喜望峰の先端まで行って岬を回って戻ってくるまで、天気が安定していればという条件付きではあるが。情報によれば同じ日に日本から来た8日間ツアーの団体は、テーブルマウンテンに登れないまま、この日の朝ケープタウンを離れたとのこと。ここは10日間ツアーでケープタウン3泊の強みが出たということか。いやいやここは油断めさるな、夕方までにテーブルマウンテンに登れて絶景を目にしてからのこと。
ビュッフェスタイルの朝食
ケープタウンの街を離れ、特徴あるライオンズヘッドの山を背にして先ず向かったのはハウト湾。沖合のシールアイランドという小島にたくさんの野生のアザラシが生息している。
見る角度によって姿を変えるライオンズヘッドの山を背に海岸線を南下する
8:45ハウト湾に到着しシールアイランドに向かう遊覧船に乗り込む
ハウト湾を離れる ここは漁港のようである
岬のリトルライオンを回り込む
シールアイランドが近付いてくると船の周りにアザラシが戯れてくる
小さな岩の上にアザラシが乗っかっている
シールアイランドそのものにはおびただしい数の野生のアザラシの群れが
港に戻り土産物の露天を除く
アフリカらしい絵も飾られているが、土産は買うときりがないのでここはカメラで
店先にはこんなものも
ちょっと時間があったのでカフェに入り休憩
ハウト湾を出て海岸線に沿って行くと深く澄んだ青い海が眼下を流れていく。時折白い砂のビーチも現れる。途中絶景ポイントでバスを停め写真タイム。
40~50分ほど行くと喜望峰自然保護区へとバスは入って行く。周りを見ているとダチョウやヒヒなどの野生動物が時々顔を見せる。
ハウト湾を出て1時間半ほどで喜望峰へと着いた。ここはこの地域の南西端、ただしアフリカ大陸の最南端ではなく、最南端はここからさらに200kmほど東にあり、西が大西洋で東がインド洋となる。
1488年ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがこの地に到達し嵐の岬と名付けたが、後に希望の岬 (CAPE OF GOOD HOPE) と改められた。バスコ・ダ・ガマが喜望峰に到達したのは1497年。ポルトガル国王からインドとの航路を見つけるよう厳命を受けた彼はその後アフリカ大陸東岸を転々と寄港しつつ、翌年5月にインドに到達することになった。
40~50分ほど行くと喜望峰自然保護区へとバスは入って行く。周りを見ているとダチョウやヒヒなどの野生動物が時々顔を見せる。
ハウト湾を出て1時間半ほどで喜望峰へと着いた。ここはこの地域の南西端、ただしアフリカ大陸の最南端ではなく、最南端はここからさらに200kmほど東にあり、西が大西洋で東がインド洋となる。
1488年ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがこの地に到達し嵐の岬と名付けたが、後に希望の岬 (CAPE OF GOOD HOPE) と改められた。バスコ・ダ・ガマが喜望峰に到達したのは1497年。ポルトガル国王からインドとの航路を見つけるよう厳命を受けた彼はその後アフリカ大陸東岸を転々と寄港しつつ、翌年5月にインドに到達することになった。
海岸線には白砂のビーチが点在する
野生の偶蹄目の動物がいた ウォーターバック?
猿かヒヒの小さな群れを見かけた
"CAPE OF GOOD HOPE" 東経18°28'26" 南緯34°21'25"
海岸には海鵜が生息していた
海岸線の近くにダチョウの姿も
喜望峰から一旦道路を戻り、途中折り返して道路の終点・ルックアップポイントまでは約10km。ここでバスを降りケーブルカーでケープポイントまで登るのだが、その前に昼食となった。
バスの終点・ルックアップポイントにあるレストランに入った
レストランの名前はTWO OCEANS
昼食のメインはロブスターを焼いたものとカラマリのフリッタだった
=つづく=