逢えば切なくて、逢わなければ悲しくて

人に聞かれた、「お前20代の頃に日記つけていたの?」って。僕はまったく日記を付けたことはなかった、でもたいていのことは心のどこか片隅に記憶できていた。まだ若かった頃は!
今はアルバムや写真を引っ張り出して見たことで触発され、その当時のことが蘇ってきているだけなのだ。

僕が高校生の頃、布施明「恋」という歌が流行った。僕の鼻はわりとでかくて、高校時代には布施明に似ていると言われたこともあった。

 恋というものは不思議なものなんだ
 逢っている時は何ともないが さよならすると涙がこぼれちゃう
 逢うたびに嬉しくて 逢えばまた切なくて
 逢わなけりゃ悲しくて 逢わずにいられない
 それというのも君のためだよ ・・・・・
 僕は君だけを愛し続けたい


僕は初恋の人をあまりにも思い詰め過ぎた。それは初恋だったせいかもしれないし、初恋のせいなんかでなく僕自身の性格なのかもしれない。彼女に面と向かって好きと言えず、それでいて一人になると悶々として、また嫌われたくなくて___
デートの前は今日はこんな話題を話そうとか、こんなバカなことをして笑わせて見ようとか色々考えていても、彼女と会った途端に金縛りのように無口になった。ある時なんか喫茶店に7時に待ち合わせて、寮の門限の9時の10分前まで遂に何も口から出ずにただ「帰ろうか?」の一言だけだったこともあった。今考えると彼女はよく我慢していたなと思う。

入社一年目の年末、家電を扱っていた僕の工場では研修生は系列ストアーに1か月間販売実習に行くことになっていた。僕は埼玉県西川口駅近くの系列ストアー店で住み込みでの実習に入った。
ところが一週間で工場に連れ戻されてしまった。というのも秋の健康診断で中学生時代からの持病により検査値が異常に悪い数値が出たので、工場に戻し工場の医務室で投薬治療しなければならないと判断されたためであった。本人にしてみれば4~5年間抱えていたことであって、特段体調的に特に問題はなかったのだが、系列ストアーの方に迷惑を掛けるわけにはいかないとの判断だった。
工場に戻され寮生活になったのだが、同期の仲間はみんなストアーや電材店に行ってしまい、他に訓練生や先輩がいたのだから一人ぼっちではなかったのだが、寂しく過ごしていた。

そんな時彼女に映画に誘われた。一番最初に行ったのは横浜西口の映画館で「カラマーゾフの兄弟」という映画であった。彼女は映画好きで、その後も「風と共に去りぬ」や「ゴッドファザー」などを見に連れて行ってくれた。「風と共に去りぬ」は何度もロードショーに掛けられていたが、一流どころで見たいということで「丸の内ピカデリー」まで出掛け、中間の休憩を含めて4時間以上掛かるこの超大作を見た。
他には当時ソフィア・ローレンやカトリーヌ・ドゥヌーブが絶頂期で、そんな映画も好んでいたようだ。また映画に出掛けると必ずパンフレットを買い求めていた。彼女はその頃の映画パンフレットを今でもとってあるのだろうか。
デートの時に会話の少ない僕たちには映画は貴重な手段であったのかもしれない。でも映画が終わった後で映画の感想を語り合った記憶は残っていない。
その他のデートで今でも記憶の中にあるのは、西有楽町デパートにあったニッポン放送のサテライトで三遊亭円楽桂歌丸毒蝮三太夫といった面々が生放送をしているのを真前で見ていて、あまりにも熱心に聞いていたせいなのか二人がお似合いに見えたのか、それとも彼女が洋裁実習で作った若葉のようなワンピースが輝いていたのか、番組から西有楽町デパートのレストラン街の「お食事券」を貰ったこともあった。

時々喫茶店で会い、話題がないから近況やら共通の会社の同僚たちの情報を話し、たまに映画を見たり食事をしたりして、横浜の山下公園やら港の見える丘辺りを散策する、そんな関係が2年くらい続いた。

1972年正月、彼女は秋田へ、そして僕は新潟へとそれぞれいつもの長期連休のように里帰りした。僕は新潟の雪の中でこの冬休みの一週間彼女の顔を見ないでいて、離れていることがすごく不安になり一大決心をし手紙をしたためた。ずっと一緒にいる関係になりたいと___