21才の別れ

1974年秋から始まったYちゃんとの付き合いは翌年6月突然終わった。

付き合い始めて最初の二人っきりのデート、上野動物園へパンダを見に行った。1972年に中国との国交正常化に伴って上野動物園にやって来たジャイアントパンダの人気は、2年たったその時でも衰えていず、長い行列の末にパンダ舎の前をたった1分ほどで通過してしまった。それも人垣越しであまりよく見えなかったという記憶がある。その日はその後浅草に行ったほか、何ヶ所か飛び回ったのだが、彼女は家に帰って兄さんに「なんでそんなにいっぺんに行ったの?もっと少しずつ行けば何回もデートできるのに!」とあきれられたと言っていた。

僕は上京してから毎年年末年始には帰省していたのに、1975年の正月は初めて寮の部屋で一人で年を越した。それでも年末年始を二人きりでデートして過ごしていたわけではなく、彼女の友達のMちゃんと共に鎌倉八幡宮に初詣し鎌倉に住んでいた後輩のNの家に行って酒を飲んだり、別の日には5~6人で二宮のMちゃんの家に行って凧を作って裏山に登って上げたりして過ごした。何をしていても楽しかった。
この冬は八方尾根や蔵王などスキーにも良く行った。彼女はどちらかというとスケートの方がうまく、東神奈川のスケートリンクや箱根のスケートリンクにも滑りに行った。僕もこの期間でスケート靴をクロスしてコーナー曲がったり、バックでクロスしてみたりとスケートの技術がかなり上達した、ピタッと止まることを除いては。冬の早朝、鎌倉の後輩Nも一緒に箱根駒ケ岳山頂のスケートリンクに行くのに、箱根の山道でスリップし車が一回転した時はびっくりであった。幸いにも前後に接近した車がいなくて事故には至らなかったのだが。
それ以外にも、グループでも二人っきりでもしょっちゅう会っていた。そういえばある歌手のコンサートに行った時、休憩時間に席を立ってロビーに出ようとしたら、Yちゃんと付き合い始めたことですっかり縁が無くなった「ときめきの人」が後ろの方の席に新しい彼と並んで座っていたこともあった。
彼女の家の門限は9時と厳しく、それまで出来る限り長くいたいとオンボロ中古車で送っていったり、電車とバスを乗り継いで自宅の前まで送って行ったり、週に4~5回は送って行ったものだ。
1975年は経済的に不安定でストライキが多く、自分が勤めていた会社でもストライキがあったが、国鉄ストライキの時などは出勤が大変だということで朝早く起きて彼女を迎えに行ったこともあった。後の世ではこういうの「アッシー君」なんだよね___

周囲の仲間からも公認の相思相愛の仲で将来も見据えての交際というつもりであったが、6月のある日唐突に道の真ん中で彼女が拗ね出した。その前に僕が何かからかい半分に言ったことに彼女が過敏に反応したようなのだが、僕には当時なんで怒らせたのか心当たりもなくただ唖然としたという記憶だけが残っている。その日はいつものように車で送るつもりでいたのだが、彼女はそのままひとりで電車で帰って行った。寮に帰ったら少しして共通の知り合いの女の子から電話があった、「駅のホームでYちゃんが泣いているのを見かけたけど、何かあった?」と。
それからも数回二人だけで会ったのだが、別れるという決断は彼女から直接ではなく、間接的に伝えられた。僕は直接僕に言ってくれなかったことに腹を立て、それがいつまでも尾を引いていた。その後もグループで何回か顔を合わせていたが、そのたびにつまらないことで口論や手を出しそうになって、それが悲しくて彼女への思いを断ち切った。あのままいたら、憎しみに変わりそうだったから___

今になって思うことは、ゆとりがなかったということ。彼女の自由な発想が好きで付き合い始めたのに、自由よりも束縛と強要で彼女の個性を消しにかかっていたということ。
当時彼女が好きだったフォークの曲に「22才の別れ」という曲があった。別れた時彼女はまだ21才になったばかりであったし、歌のように5年も長くは付き合っていなかったよ___


今回白内障の手術をきっかけに古い写真やアルバムを見返していたのだけれど、初恋の時と違って彼女と別れた時に写真を破り捨てた覚えはないのに、仲間と一緒に写っている写真ばかりで彼女とのツーショットはほとんどなかったことに気が付いた。色々な場面で僕自身がカメラマン役をしていたからなのだろう。最後に二人が同じ方向を向いて並んで写っていたのは大島キャンプの集合写真であった。このキャンプには現在の妻も参加していてその写真の中にいるのだが、まさか4年後に結婚することになるとは僕自身想像すらしていなかった___
この頃まではアルバムできちんと整理されているのだけれど、これ以降は(結婚式の時だけ除いて)写真が束ねてしまってあるだけで全く整理もされずに放置されていた。

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最後に二人が並んで写っていたのは大島キャンプの集合写真だった


別れた頃TVでは、沢田研二主演の「悪魔のようなあいつ」をやっていた。3憶円犯人を主人公にしたドラマである。そのエンディングに流れていたのが「時の過ぎゆくままに」というヒット曲。今でもこの曲を聴くとYちゃんとの別れた頃のことを思い出す___

あなたはすっかり疲れてしまい 生きてることさえいやだと泣いた
こわれたピアノで想い出の唄 片手で弾いては溜息ついた
時の過ぎ行くままにこの身をまかせ 男と女がただよいながら
おちて行くのも幸せだよと 二人冷たい身体合わせる

身体の傷なら直せるけれど 心の痛手はいやせはしない
小指にくいこむ指輪を見つめ あなたは昔を想って泣いた
時の過ぎ行くままにこの身をまかせ 男と女がただよいながら
もしも二人が愛せるならば 窓の景色も変わってゆくだろう