2番目の恋の始まり

Yちゃんは1973年4月に入社してきた。
僕が初めてYちゃんを知ったのは、例のこのときめきを君に伝えたい!のページの本栖湖キャンプ。例の集合写真の中にYちゃんの姿もある。そのキャンプで彼女は確か井上陽水の「夢の中へ」を披露したのだと思う。
最初の頃の感想は大きい子だなというくらいにしか思っていなかった。いつも同じ職場のMちゃんと一緒にいて、二人共に身長が170cm近くある大型新人だった。
彼女はそのキャンプが縁で、その年の8月から労働組合の青年婦人対策部(略して青対=せいたいと呼んでいた)の委員に加わった。一緒に活動するようになったら、非常にユニークな感性の子で、少しずつ彼女の魅力に引かれていった。
1973年というともうミニスカートの時代が終わりに近付いていて、反動で丈の長いスカートの人も多くいた頃、彼女は極端に短いスカートで長い脚を惜しみもなく晒していた。
そんな彼女は何事につけても積極的に参加してきた。例えば昼休みに組合横の広場で2列で向かい合ってバレーボールのパス廻しをやっているのにも加わってきた。
また彼女は自身でフォークギターを弾いていて、やはり昼休みに仲間で輪になってその頃ブームになっていたフォークソングを歌う時には、輪の中心にいてもう一人の男子と共にギター伴奏をしていた。

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昼休みにフォークソングの輪ができていた

1974年5月連休に青対主催で行った北海道旅行、彼女が実行委員の一人だった。その頃僕の心の中を悩ませていたのは、前年2度ほどデートしたけど宙ぶらりんだったときめきの人と、その年のバレンタインでチョコレートを貰ったけど恋愛対象として接することができずに妹分としか見れないJちゃん。しかしこの旅行以降、Yちゃんの存在が心の中でどんどん大きくなっていった。
この頃僕はオンボロ中古車を手に入れた。そして仕事が終わった後は用がなくても組合事務所を訪れて青対の仲間と戯れていた。労働組合とはいってもそんな思想的に堅いものではなく、いろんな職場の同年代のサークル活動といった感じの付き合いであった。次の行事の企画を練ったり、チラシやしおりを印刷したりと楽しく過ごしているとあっという間に時間が過ぎ、その後みんなで食事にも行ったりしていた。時には何台かの車で食事がてら湘南をドライブすることもあった。数台の車で出掛けても、僕の車にはYちゃんとその友達のMちゃんが必ずといっていいほど乗って来た。

彼女は自分の思いだの経験だのを、ミニコミ紙という形にして発行していた。今だったらインターネットでホームページを作ったりブログを書くのだろうけど、当時は紙媒体しかない時代だった。
後に僕も真似て僕のミニコミ紙を発行したりした。今こうやってインターネット上でホームページやブログをやっているのは、意識していないけれどその時の彼女の影響が大きいのだろうと思う。
もう一つ影響を受けたのは、夜の星座に興味を持ち星座の本を買ってきて、星空を眺めるようになったこと。夏の大三角だの、さそり座だの冬のシリウスだのを認識できるようになった。

そんな彼女とはグループ交際もしながら、一方で1対1の付き合いも始まった。